日本における統一教会解散後(3)強制改宗ジャーナリストが語る、拉致・監禁・棄教の強要、そして訴訟が、いかに統一教会への社会的敵意を形作ったのか。和訳全文 #福田ますみ #ビターウィンター #統一教会 #中田聡

 

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日本における統一教会解散後(3) 強制改宗 ジャーナリストが語る、拉致・監禁・棄教の強要、そして訴訟が、いかに統一教会への社会的敵意を形作ったのか。 福田ますみ ※2026年6月29日、ベルギー・ブリュッセルのブリュッセル・プレスクラブで、人権団体「Human Rights Without Frontiers(国境なき人権)」が主催した記者会見「日本――ある宗教が根絶されるまでの隠された物語」における講演。 写真1 ブリュッセルでの記者会見で、「Human Rights Without Frontiers」の共同創設者兼代表であるウィリー・フォートレ氏とともに、自著『国家への生贄(Sacrifice to the Nation)』を紹介する筆者。 写真:FOREF ここで少し、私自身についてお話ししたいと思います。 私は多くの日本人と同じように、宗教にはほとんど関心がなく、新宗教に対しても特に良い印象を持っていたわけではありません。 しかし、安倍晋三元首相が暗殺された直後、メディアが統一教会への批判一色となる中、私は自分自身でこの教団について調査を始めることを決意しました。 なぜでしょうか。 暗殺事件のおよそ1年前、私はまったく別の取材で、たまたま統一教会の信者の一人にインタビューしたことがありました。 その取材のテーマは宗教ではありませんでした。 彼は別の分野の専門家で、私の質問に一つひとつ正確に答えてくれました。そして何よりも、その人柄の優しさ、誠実さ、温かさが非常に印象的でした。 統一教会は以前から日本社会で否定的に見られていましたが、その時私は心の中で、 「こういう人もいるんだな」 と思ったことを今でも覚えています。 暗殺事件後、その思いやりにあふれた人物の姿は、「日本を食い物にする邪悪な組織」として描かれる教団のイメージとは、あまりにもかけ離れていました。 私はその矛盾に強い違和感を覚えました。 迷った末、私は彼に短い励ましのメールを送りました。 そこには、おおよそ次のようなことを書きました。 「これは魔女狩りになっています。宗教迫害です。どうか負けないでください。」 彼はすぐに返信をくれました。 その返事には、彼がどれほど絶望していたかが率直に綴られていました。 「あなたのメッセージを読んで涙が出ました。 今は、自分の存在そのものを否定されているような気持ちです。 自分一人だけが苦しむのであれば耐えられます。 でも娘がいます。 娘のことを考えると……。」 私は深く心を揺さぶられました。 なぜ、宗教を信じているというだけで、このような扱いを受けなければならないのでしょうか。 そして、活動中の信者がわずか6万~7万人ほどしかいない比較的小規模な宗教団体が、なぜ社会全体からこれほどまでの激しい敵意を向けられるようになったのでしょうか。 こうした疑問こそが、私の調査の出発点となりました。 私はジャーナリストとして一貫して、圧倒的なメディア報道や世論の中で見過ごされたり、押しつぶされたりしてしまう真実を掘り起こすことを心掛けてきました。 その姿勢を形作った経験の一つが、ロシアでの取材でした。 2008年前後、私はモスクワの独立系新聞『ノーヴァヤ・ガゼータ』に長期間滞在し、編集長ドミトリー・ムラートフ氏をはじめ、多くの記者たちにインタビューを行いました。 その取材をもとに、私は『暗殺国家ロシア――消されたジャーナリストを追え』という本を書きました。 ウラジーミル・プーチン政権下では、権力者にとって都合の悪い真実を暴こうとするジャーナリストたちが、組織的に標的とされ、命を奪われてきました。 わずか100人余りのスタッフしかいない『ノーヴァヤ・ガゼータ』ほど、その犠牲を受けた新聞社はほとんどありません。 1993年の創刊以来、この新聞社では5人の記者と1人の法律顧問が、銃撃、毒殺、あるいは残虐な暴行によって命を落としています。 それでも私は、危険を承知の上でペンを置くことなく取材を続ける記者たちに出会いました。 彼らは決して筆を折ろうとはしませんでした。 そして2021年、編集長のドミトリー・ムラートフ氏は、その功績が評価され、ノーベル平和賞を受賞しました。 写真2 ドミトリー・ムラートフ氏 写真:Olaf Kosinsky 調査を続けるうちに、私は統一教会について、日本の主要メディアではほとんど、あるいは全く報じられていない数多くの事実を知るようになりました。 その中でも、私が最も強い問題意識を抱いたのは、信教の自由、人権、そしてジャーナリズムの役割そのものに関わる未解決の問題でした。 最も衝撃的だった発見は、1966年から2014年までの間に、4,300人以上の統一教会信者が拉致・監禁され、信仰を捨てさせる目的で拘束されていたという事実です。 監禁場所の多くは民間のマンションやアパート、あるいは精神科病院でした。 中には12年5か月もの間、監禁され続けた人もいます。 このような重大な人権問題であるにもかかわらず、日本の主要メディアではほとんど報道されてきませんでした。 被害者たちの証言は、胸が締めつけられるようなものです。 彼らは 「信仰を捨てるまで絶対に外へ出さない」 と言われ続けました。 ある人は監禁先から逃げようとして3階の窓から飛び降り、脊椎を大きく損傷しました。 また別の人は6階から飛び降りました。 命は助かったものの、脳に重い後遺症が残り、記憶障害を抱えることになりました。 絶望のあまり、解放してもらおうとして醤油や家庭用洗剤を飲んだ人もいます。 自ら命を絶った人もいました。 若い女性の中には、監禁中に性的暴行を受けたと証言する人もいます。 最終的には、こうした拉致・長期監禁を受けた人の60~70%が、圧力によって信仰を放棄したと推定されています。 さらに教会を離れた後も、多くの人が**PTSD(心的外傷後ストレス障害)**をはじめとする長期的な精神的後遺症に苦しみ続けています。 では、この拉致・監禁の責任は誰にあるのでしょうか。 ほとんどの場合、それを実行するのは信者本人の家族です。 私の取材では、その家族たちは、信仰を捨てさせることを専門とする**ディプログラマー(脱会工作を行う人物)**や、統一教会を異端視するキリスト教牧師らから影響を受けています。 親たちは、 「息子や娘が統一教会に残れば、犯罪者になってしまう。」 などと説明されます。 子どものためになると信じ込まされた親たちは、自らの子どもを拉致し、監禁するよう説得されるのです。 こうした仕組みによって、ディプログラマーや牧師は、監禁行為そのものには直接関与せずに済みます。 また警察も、これらを家庭内の問題として扱うことが多く、刑事事件として介入することはほとんどありません。 信者が監禁されると、ディプログラマーや牧師は、その監禁場所となっているマンションや住宅を何度も訪れます。 そこで教団の教義を攻撃し、教祖を非難し、執拗な言葉による攻撃を繰り返します。 場合によっては暴力も振るわれます。 目的はただ一つ。 本人の精神を打ち砕き、信仰を放棄させることです。 私は、この拉致・監禁システムは、戦後日本における最も深刻な人権侵害の一つだと考えています。 しかし、それ以上に恐ろしいのは、この仕組みが組織的かつ自己増殖的なシステムへと発展していったことです。 信者がようやく 「統一教会を辞めます。」 と表明すると、その意思が本物であることを証明するため、ディプログラマー側は一連の**「試験」**を課すとされています。 その内容には、 教団本部への正式な脱会届の提出 懺悔文や反省文のような長文を書くこと 教団で禁じられている飲酒をすること 他の監禁中の信者を訪ね、脱会を説得すること などが含まれます。 そして最終的には、多くの場合、 統一教会を相手取って訴訟を起こすよう指示されます。 もし拒否すれば、 「本当に脱会したとは信じられない。」 と言われ、実質的には従わざるを得なくなります。 訴訟では、 マインドコントロールされた 教団に入信させられた 宗教商品を買わされた 高額献金を強要された などと主張することになります。 私は、この過程によって、本来は拉致・監禁の被害者だった人々が、今度は統一教会の被害者として社会に提示されるようになるのだと考えています。 こうした訴訟が積み重なることで、 「統一教会は社会に深刻な被害を与えた。」 という世論がさらに強まり、教団の評判は一層悪化します。 また、相次ぐ訴訟は教団に大きな経済的負担も与えます。 私は、これが元信者による民事訴訟が非常に多くなった理由の一つであると考えています。 一方で、私の取材によれば、ディプログラマーやキリスト教牧師には、脱会が成功すると家族から多額の報酬が支払われるとされています。 つまり、強制的な脱会は一つのビジネスになっているのです。 さらに牧師たちは、信仰を失った元統一教会信者を自らの教会へ導くことで、新しい信者を獲得することもできます。 このように、この仕組みは関係者すべてに利益が生まれる構造になっています。 先ほども申し上げたように、統一教会を相手とする訴訟のほぼすべては、**全国霊感商法対策弁護士連絡会(NNLASS)**に所属する弁護士によって担当されてきました。 興味深いことに、12年5か月監禁された信者が起こした民事訴訟では、かつてNNLASSに所属していた弁護士自身が、同団体を批判する陳述書を提出しています。 その訴訟は、監禁を実行した親族だけではなく、監禁を指示したとされるディプログラマーや、関与したキリスト教牧師も被告となりました。 その陳述書によれば、NNLASS所属の弁護士たちは、ディプログラマーによる拉致・長期監禁の実態を十分認識していたにもかかわらず、それを黙認していたとされています。 さらに、多くの弁護士が、 「カルト」と呼ばれる団体に対しては裁判所が不利な判断を下しやすい と考え、そのような事件を経済的に利益の大きい案件として捉えるようになっていったことも示唆されています。 写真3 全国霊感商法対策弁護士連絡会(NNLASS)の著名なメンバーである紀藤正樹弁護士。 ある弁護士は、「カルト」とレッテルを貼られた団体に対してであれば、本来であれば民事裁判では認められないような法的主張であっても、裁判所が受け入れる傾向があると述べています。 また、その弁護士は、司法の内部には、 「カルト」と呼ばれる団体の代理人になれば、負けることはほぼ避けられない。 という暗黙の前提が存在しているように感じられたとも語っています。 もしこれらの指摘が事実であるならば、それは司法が公平・中立に運営されているのかという点について、極めて重大な疑問を投げかけるものです。 実は私自身も現在、NNLASSに所属する弁護士の一人から名誉毀損で提訴されています。 訴状では、私が月刊誌に掲載した記事に虚偽の内容が含まれていると主張されています。 しかし、私はその主張を全面的に否定しています。 私の取材内容を裏付ける膨大な資料を保有しており、それらを裁判所に提出して立証を進めています。 この訴訟は、私の著書が出版された直後に提起されました。 そのため私は、この裁判の目的の一つが、少なくとも私の本の出版を萎縮させたり、妨害したりすることにあったのではないかと考えざるを得ません。 強制的な脱会工作の影響は、それだけにとどまりません。 このような経緯で信仰を捨てた元信者の多くは、教団に対して深い憎しみを抱くようになります。 そして、その一部は後にメディアへ出演したり、法廷で証言したりし、教団に不利な証言を行うようになります。 それらの証言が事実かどうかにかかわらず、社会の統一教会に対する否定的なイメージはさらに強化されます。 その結果、不安を抱いた別の家族がディプログラマーに相談し、自分たちの子どもを拉致・監禁するようになります。 こうして、 拉致 → 監禁 → 強制脱会 → 訴訟 という連鎖が繰り返されるのです。 私は、この悪循環が終わることなく続いてきたと考えています。 さらに私は、この強制脱会の歴史と、最終的な統一教会への解散命令との間には直接的な関係があると考えています。 私の調査によれば、教団に不利な証拠として裁判で用いられた民事訴訟の原告の半数以上は、過去に拉致・監禁された経験を持つ人々でした。 彼らの証言は、多くの裁判において証拠の一部として採用されています。 私は、それらの証言が、最終的に教団の解散命令へと至る司法判断に大きな影響を与えたと考えています。 初めてこの話を聞く方にとっては、非常に複雑に聞こえるかもしれません。 しかし、長年にわたる取材を通じて、私は次のような結論に至りました。 文部科学省をはじめとする政府機関、司法の一部、警察、そして特定の弁護士団体などが相互に作用し合うことで、統一教会の解散へとつながる状況が作り出されたのです。 その過程で、4,300人を超える信者が強制的な脱会工作の対象になったとされる事実は、私にとって極めて重大な人権問題です。 私は普段、単純な陰謀論には懐疑的です。 しかし、私の取材結果から判断すると、この問題は単なる偶然の積み重ねではなく、国家機関が関与した一連の協調的な動きとして理解しなければ説明できないと考えています。 この問題は、中国やロシアなどで起きている宗教迫害と比べれば小さな問題だ、と考える人もいるかもしれません。 確かに、日本では宗教指導者や信者が投獄されたり、処刑されたりしているわけではありません。 しかし私は、自由・民主主義・法の支配・信教の自由を掲げる先進民主国家で、このような事態が起きたことにこそ重大な意味があると考えています。 国家が広範囲にわたる人権侵害の疑いを放置し、その一方で解散命令という法的手段によって礼拝施設を奪うことは、目立たない形ではあるものの、極めて深刻な宗教迫害であると私は考えています。 裁判所は、 「解散命令は宗教法人としての法人格や税制上の優遇措置を失わせるだけであり、信教の自由そのものを侵害するものではない。」 と判断しています。 しかし私には、その論理は**法律上のフィクション(法的擬制)**に過ぎないように思えます。 宗教団体が法人格を失えば、その宗教共同体は組織を維持し、活動を続け、信仰を共同で実践する能力の大部分を失ってしまうことは避けられません。 最後に、自由・民主主義・信教の自由を大切にしているヨーロッパの皆さまにお願いがあります。 どうか、極東の民主国家・日本で現在進行していると私が考える宗教迫害に関心を持ってください。 そして、自らの基本的人権が侵害されたと考えている信者の方々に、皆さまのご理解とご支援をお願い申し上げます。

今日の動画の台本

タイトル
家庭連合に足りないのは兵法だ 論語だけでは信徒を守れない

サムネ文言
論語だけで戦場に出た家庭連合

皆さんこんにちは。
ジャパネットナカダこと中田聡です。

今日は、家庭連合の人たちと接してきて、私が感じたことをお話ししたいと思います。

最初に断っておきますが、私は家庭連合の信者ではありません。
ただ、家庭連合の問題については、かなり長い間、関心を持って見てきました。
信教の自由の問題、マスコミ報道の問題、旧統一教会叩きの問題、そういう観点から発信してきました。

そして実際に、家庭連合の人たち、勝共連合の人たち、二世の人たちとも接する機会がありました。

そこで感じたことがあります。

家庭連合の人たちは、いい人が多い。

これは本当にそう思います。
真面目な人が多い。
礼儀正しい人が多い。
人の話を聞く人が多い。
献身的な人も多い。
信仰に対してまっすぐな人も多い。

私はそこは認めています。

ただし、ここからが今日の本題です。

いい人であることと、現実社会で組織を守れることは別です。

ここを私は強く感じるようになりました。

先日、勝共二世の若い人たちが街宣の前に勉強している場面を、たまたま見させてもらう機会がありました。

街宣のテクニックを学ぶ。
これはいいことです。

声の出し方。
立ち位置。
話す順番。
どうやって通行人に伝えるか。
どうやって相手に聞いてもらうか。
どうやってトラブルを避けるか。

こういうことを学ぶのは、もちろん大事です。

私はそれを否定しているわけではありません。

ただ、見ていて思ったんです。

それだけでいいのか、と。

街宣がうまくなることは大事です。
でも、街宣がうまくなることと、社会の中で通用する人間になることは別です。

もっと大きな意味で、自分自身の能力を高める。
社会を見る目を養う。
発信力をつける。
交渉力をつける。
法律や行政の仕組みを学ぶ。
マスコミの構造を理解する。
世論がどう動くのかを考える。
組織運営を学ぶ。
危機管理を学ぶ。

そういう自己啓発の意識はあるのだろうか。

私はそこに疑問を持ちました。

私は商売をやってきた人間です。

ですから、結果にこだわります。

売れなければ終わりです。
伝わらなければ終わりです。
信用されなければ終わりです。
お客さんに選ばれなければ終わりです。

商売の世界では、いくら自分が正しいと思っていても、それだけでは通用しません。

商品がよくても、見せ方が悪ければ売れない。
価格設定を間違えれば売れない。
タイミングを間違えれば売れない。
お客さんの気持ちを読めなければ売れない。
信用を失えば、もう買ってもらえない。

だから商売人にとって、自己啓発は趣味ではありません。
命題です。
生存戦略です。

自分の能力を高めなければ、食べていけない。
自分の頭で考えなければ、負ける。
世の中の変化を見なければ、取り残される。

私はそういう感覚で生きてきました。

ところが、家庭連合の人たちと接していると、悪いけれども、そこまでの切実さを感じないことがあります。

真面目にやっていれば、いつか分かってもらえる。
信仰していれば、神様が道を開いてくれる。
自分たちは正しいのだから、世間もいつか理解してくれる。
裁判所も最後は分かってくれる。

そういう空気を感じることがあります。

しかし、現実はどうだったのか。

裁判所から解散命令が出たわけです。

これは非常に重い現実です。

田中前会長は、高裁の解散命令が出る直前内内の集会で「解散命令はないという趣旨のことを言っていました。」複数のルートからこの話は聞いております。
私はそれを聞いた時、正直に言って、危機感が足りないのではないかと思いました。

もちろん、信仰の立場からすれば、希望を語ることは大事でしょう。
信徒を不安にさせないために、強気の発言をすることもあるのかもしれません。

しかし、組織を守る立場の人間が、最悪のケースを想定していなかったとしたら、それは大問題です。

商売人なら、最悪のケースを考えます。よく最悪に備えて最善を期待するという言葉があるんです。
しかし外から見て教団本部にその意識があったのかどうか見えてきませんでした。

売れなかったらどうするか。
返品が来たらどうするか。
クレームが来たらどうするか。
アカウントが止まったらどうするか。
資金がショートしたらどうするか。
信用を失ったらどう回復するか。

これを考えるのが普通です。

それを考えずに、
「大丈夫だろう」
「何とかなるだろう」
「分かってもらえるだろう」
で進んでしまったら、商売ではすぐに潰れます。

これは信仰心の問題ではありません。
リスク管理の問題です。

信仰は大切です。
しかし、信仰はリスク管理の代わりにはなりません。

祈りは大切です。
しかし、祈りは広報戦略の代わりにはなりません。

善意は大切です。
しかし、善意は裁判対策の代わりにはなりません。

ここを私は言いたいのです。

私はこの問題を考えていて、論語と兵法の対比に似ていると思いました。

家庭連合には、論語はあると思います。

人として真面目に生きる。
家庭を大切にする。
礼儀を重んじる。
信仰を大切にする。
人に尽くす。
献身する。
人格を高める。

これは論語的な世界です。

私はそこを否定しません。
むしろ、そこは立派だと思っています。

家庭連合の人たちにいい人が多いと私が感じるのは、この論語的な教育があるからだと思います。

しかし、今の家庭連合に必要なのは、論語だけではありません。

兵法も必要です。

相手はどう攻めてくるのか。
マスコミはどこを切り取るのか。
裁判所は何を重視するのか。
世論はどう動くのか。
政治家は何を恐れるのか。
行政はどう動くのか。
どこで守るのか。
どこで攻めるのか。
どこで退くのか。
どこで情報を出すのか。
どこで黙るのか。

これは兵法の世界です。

論語なき兵法は危険です。
これは当然です。

倫理もなく、道徳もなく、ただ勝てばいいという兵法は危険です。
それは権謀術数になります。
人をだます方向に行きかねません。

しかし逆に、兵法なき論語も無防備です。

いい人である。
真面目である。
信仰心がある。
献身的である。

それは立派です。

しかし、それだけでは、世間の荒波を乗り越えることはできません。
それだけでは、信徒を守れません。
それだけでは、組織を守れません。

論語はある。
だが兵法が足りない。

これが、私が家庭連合を見て感じていることです。

ここで誤解してほしくないのは、私は家庭連合の人たちを馬鹿にしているわけではありません。

むしろ、皮肉な話ですが、私は彼らを見て学びました。

世の中には、自分とはまったく違う前提で生きている人たちがいる。
これを学びました。

私は商売人です。
だから、結果にこだわります。
数字にこだわります。
反応にこだわります。
費用対効果にこだわります。
信用にこだわります。

伝わらなければ意味がない。
売れなければ意味がない。
相手に届かなければ意味がない。

そういう世界で生きてきました。

しかし、家庭連合の人たちは必ずしもそうではありません。

信仰。
誠実さ。
祈り。
献身。
神様への信頼。
仲間とのつながり。

そういう別の軸で生きている人たちがいる。

これは私にとっても学びでした。

だから私は、彼らを一方的に否定しているわけではありません。
人として学ぶところはあると思っています。

ただし、現実社会で組織を守るには、それだけでは足りない。

ここを言っているのです。

家庭連合を批判する人はたくさんいます。

献金問題で批判する人。
政治との関係で批判する人。
被害者救済の観点から批判する人。
反社会性という言葉で批判する人。

一方で、家庭連合を擁護する人もいます。

信教の自由。
マスコミ報道の偏向。
左翼勢力の攻撃。
共産党の影響。
魔女狩り。

そういう観点で語る人はいます。

しかし私は、もう一つ別の視点が必要だと思っています。

それは、家庭連合自身の能力開発の問題です。
自己啓発の問題です。
リスク管理の問題です。
組織運営の問題です。

家庭連合の人たちは、いい人が多い。
しかし、いい人であることと、世間の荒波を乗り越えられることは別です。

正しいことを言っているつもりでも、伝わらなければ意味がありません。
信仰があっても、社会に通用する言葉を持っていなければ届きません。
善意があっても、マスコミに切り取られれば逆効果になります。
真面目に活動していても、戦略がなければ負けます。

ここに対する切実さが、もっと必要だと思います。

では、家庭連合に必要な自己啓発とは何か。

これは、金儲けのための自己啓発ではありません。
怪しい成功哲学でもありません。
「願えば叶う」みたいな話でもありません。

私が言っている自己啓発とは、もっと現実的なものです。

第一に、社会を見る力です。

なぜ世間は家庭連合を嫌うのか。
なぜこちらの言葉は届かないのか。
なぜマスコミは特定の切り取り方をするのか。
なぜ政治家は距離を取るのか。
なぜ裁判所は厳しい判断をしたのか。

これを感情論ではなく、冷静に分析する力が必要です。

第二に、言葉の力です。

自分たちの内輪の言葉ではなく、世間に通じる言葉で説明する力です。
信仰用語だけでは届きません。
内部の常識だけでは伝わりません。

外の人が聞いても理解できる言葉。
反対派が聞いても無視できない言葉。
マスコミに切り取られても耐えられる言葉。

そういう言葉を持つ必要があります。

第三に、発信力です。

今の時代、黙っていれば誰かが分かってくれる、ということはありません。
自分たちで発信しなければなりません。
動画、ブログ、SNS、街宣、集会、株主総会、記者会見、すべてを使って発信する必要があります。

ただし、発信すればいいというものでもありません。

誰に向けて話すのか。
何を伝えるのか。
どの順番で伝えるのか。
どんなタイトルにするのか。
どんなサムネイルにするのか。
どうすれば見てもらえるのか。

ここまで考えなければなりません。

第四に、法律と行政の知識です。

解散命令という大問題が起きた以上、法律を知らないでは済みません。
行政がどう動くのか。
裁判所が何を見ているのか。
政治家にどう働きかけるのか。
被害者救済法制がどうなっているのか。

こういうことを学ぶ必要があります。

第五に、組織運営です。

上からの指示を待つだけではなく、自分たちで考える。
現場の声を拾う。
失敗を検証する。
改善する。
若い世代を育てる。
外部の知恵を取り入れる。

これが必要です。

私は、家庭連合の人たちに対して、街宣をやめろと言っているわけではありません。

街宣はやればいい。
やるなら、堂々とやればいい。

ただし、街宣だけでは足りません。

街宣は一つの手段です。
目的ではありません。

街宣がうまくなることは大事です。
しかし、街宣がうまいだけでは、社会は変わりません。

街宣をするなら、同時に文章力も必要です。
動画発信力も必要です。
法律の基礎知識も必要です。
マスコミ対応も必要です。
SNS戦略も必要です。
相手の主張を読む力も必要です。
自分たちの失敗を直視する力も必要です。

そこまでやって、初めて社会運動になります。

そうでなければ、単なる抗議活動で止まってしまいます。

私はそこを心配しているのです。

もう一度言います。

家庭連合の人たちは、いい人が多いです。
これは私の実感です。

しかし、いい人だけでは信徒を守れません。

真面目さだけでは、世論には勝てません。
信仰心だけでは、組織は再建できません。
善意だけでは、裁判には勝てません。
祈りだけでは、広報戦略にはなりません。

だからこそ、自己啓発が必要なのです。

自分の能力を高める。
社会を見る目を養う。
現実を直視する。
言葉を磨く。
発信力を磨く。
交渉力を磨く。
リスク管理を学ぶ。
兵法を学ぶ。

論語は大切です。
しかし、兵法も必要です。

論語なき兵法は危険です。
兵法なき論語は無防備です。

私は家庭連合の人たちに、無防備な善人で終わってほしくありません。

本当に信徒を守りたいなら、
本当に信教の自由を守りたいなら、
本当に世間に訴えたいなら、
もっと強くならなければならない。
もっと賢くならなければならない。
もっと社会に通用する存在にならなければならない。

私はそう思います。

今日は、家庭連合の人たちと接して感じた、自己啓発と兵法の必要性についてお話ししました。

ご視聴ありがとうございました。